西門商店街~茶屋町通り ケロぶらり7

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シールも新しいMAP
イラストは早大漫画研究会作

昭和41年にワセダグランド商店会から独立して現在に至っています。

現在は三品食堂、いねや、おにぎりやかわしまさんなど、新旧のワセ飯(メシ)名店が並んでいますが、
平成の半ばころまでは、囲碁のお店や古本屋さん、文房具屋さんなどもありました。

ケロ太

ケロ太のおじいちゃんおばあちゃんも100年くらい前に新潟から上京して、この地で学生服屋さんを営んでいたんですよ。

そのころはほぼ日本人だけだったこのあたりですが、今は外国の学生さんがたくさん行き来していて、
世界各国語を聞くことができます。

そして、武道系の部が使用する体育館があるために、通り名にもその名がついています。

掛け声や太鼓の音が聞こえる

西門商店街を抜けてまっすぐの横断歩道を渡ったその先は、茶屋町通り 約317m

西門から商店街を抜けて高田馬場方向に進むと、早稲田通りに沿って1本右側(北側)に、

茶屋町通りがあります。
この静かな細い通りは、商店も少ないのになぜ茶屋町?と思いますが、
江戸時代にお茶屋さんがこの通りに軒を連ねていたからだそうです。

西門商店街出口と看板
横断歩道を渡り、向かって右方向が茶屋町通り
早稲田通りと茶屋町通りの間はかつては土手
いまは建物が並ぶ
高田馬場方面へ

なんでお茶屋さんがたくさんあったのか?

江戸時代下戸塚(西早稲田)辺りに芝の原っぱがあり、そこに幕府が馬場を開いたことが発端です。

江戸名所図絵 本庄修著 下戸塚より

馬場の中はテロ(謀反)防止のためか、飲食禁止、馬場に来るまでは乗馬禁止などの掟がありました。
そこに目を付けた地元のお寺や農家が、馬場の土手の外側の通りでお茶屋さんを始めたわけです。


やがて近隣の寺社への参拝客や、旧鎌倉街道を通る旅行客なども集め、にぎわいました。
今で言う村おこしの一環ですね~~。

現在の早稲田通りと茶屋町通りに沿って、かつては馬場のコースを細長く仕切る何本かの土手がありました。
いまは平らに整地され、建物が通り沿いにびっしり並んでいます。

堀部安兵衛の有名な「高田馬場はまだかー」の果し合いもこの辺であったのですよ。
先ほどの写真の「茶屋町通りの入口看板」のあたりです。

堀部安兵衛が決闘前に、近所の酒屋さんで一杯やった酒升は、今日もしかるべきところに保管されているとか!

むかしは馬場あたりから落合にかけての広い地域は「高田」とよばれていました

ところで現在も 高田 という地名は広く使われています。
早稲田は夏に神田川が暴れるので、早く米が収穫できる早稲にしたぐらいですから、洪水を避けるため、

ちょっとい地域にんぼを作ったからかもしれないですね。
それで高田・・・。(あくまでも個人の意見ですー)

いまだに暴れる神田川
治水工事によりあふれることはほとんどなくなったけれど
ゲリラ豪雨の日は、コワイ

(神田川のブログもご覧くださいー)
https://nishiwasedahokuou.com/keroburari01/

高田にある馬場だから、高田馬場と呼ばれるようになりました。
(現在の高田馬場駅はこの馬場からは早稲田通りを西へ10分ほど歩きます)

八幡寿司さんの前からの早稲田通りの眺め
上:東京メトロ早稲田方面  下:高田馬場駅方面 
都バスは学02系統高田馬場駅行

早稲田通りは現在は2車線の通りで、歩道も整備されて歩きやすくなりました。

JR高田馬場駅は、当時のお役人が戸塚駅にしようと思ったそうですが、
神奈川の戸塚宿にすでに戸塚駅があったので、それに張り合えるほど有名な「高田馬場」にしたそうです。

地元のの読み方は たかのばば 駅名は たがのばば。
銀行の支店名も会社により違ったりして、どっちを言ったらよいのかわからないこともしばしば。

西門商店街から茶屋町通り出口までは、7分ほど 520メートル余、
高田馬場駅までは、早稲田通りを歩いて20分前後 1400メートルほどです。

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この記事を書いた人

はじめまして。

新宿区西早稲田に生まれて、ン十年のケロ太とネコマタです。
お薬と雑貨の店を開いて、ン十年。
お客様にはお薬で身体の内側を、雑貨で心をほっこりしていただいています。

ところで心身を動かせば脳活・腸活につながります。
そこで雑貨・薬に加えて心身を動かす、さんぽ話題をプラス。
ご一読いただければ幸いです。

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